失敗作。また書き直します。 11日目
たとえば、道を歩くとき、あなたはどこを歩きますか?
広い道だったら、真ん中・右側・左側、はたまた斜めにジグザグに歩きますか?
私は大体、テンションが上がっているときには、縁石の上を歩きたくなります。
というか、周りに人がいないときとか、いても別にいいやって開き直っているときには縁石の上を手を広げながら歩くことが好きです。
車が走ってきたときは、足を踏み外して車道に落ちて車にそのまま轢かれるんじゃないかってヒヤヒヤします。そのヒヤヒヤするスリル感も合わせて好きです。
たとえ車が走ってこないような道だとしても、縁石はやはり段差なので踏み外して転んだらただの怪我ですよね。普通の道でバランス崩して少し足捻ったりするのとは訳が違いますよね。
あとは、簡易な平均台だとも思っています。いかに、綺麗にまるで普通の道かのように特別な場所で、歩くか。最後はジャンプして綺麗に着地出来たら最高ですね。
私にとって、道の縁石はそんな感じでほんのちょっと特別な場所です。
「縁石の上を歩くように、人生を歩いていきたい」
そんなことをふと考えたのは、コンテンツを生み出そうとした末の考えだったように思います。
誰かから見たら
ちょっとおかしな、でも少しだけ真似したくなるような。
恰好悪く、恥ずかしく、あんまり近寄りたくないような。
手を伸ばしたら届くし触れる。けれど、同じ高さにはいない。
少し、勇気を出したら同じ高さの場所にいけるような
縁石の上に立つような、人間になれたらいいのに、って思ってます。
それの一環として、ではないですが。
とくもち、一般人をやめました。
これは、過去の、コミュニケーションについての話です。
中学生の頃私は演劇部に所属して、部活動と勉強と学校の行事と、世間一般の中学生らしい中学生をしていました。
中学生の頃は本当に楽しくて楽しくて。クラスはもちろん仲が良かったですが、学年全体としてもものすごく団結力が高く、みんなの仲が良くて素敵な、大好きな場所でした。
中学生なので、女子のドロドロとか面倒なこともありました。特に私は演劇部だったので、部員は女子しかいなかったし、先輩・後輩・同学年とも色々ありました。
先輩の言うことは必ず聞いていたし、それでも「いやいや、アナタがそれ言いますか?」みたいな、手本にできない先輩だっていました。言っていることが矛盾していることもあったし、理不尽だと思う言動もたくさんされました。
でも、それはそれだと割り切るしかないですよね。いざこざ起こしたくないし。喧嘩や態度を悪くして、いじめられることもあるかもしれない。
同学年だと、要領のいい子、先輩に媚を売る子、ちょっと悪目立ちしてしまう子などがいました。役者がオーディションによって決まるので、そこでの優位性とか演技力の上手さだとかもありますよね。
いじめっぽく冷たい態度をとってしまったこともあったし、イライラすることを直接本人に伝えて「何言ってんのアイツ、むかつく」と陰口を叩かれたこともありました。
後輩は後輩で生意気な子がいたり、
良い子だと思って後輩と仲良くしたいという気持ちだけで、その子の気持ちを考えずにあだ名をつけて親しみを感じて、それが嫌だったことを後から知ったり。
こう書くと、割とドロドロしてました。笑
それでも楽しかったことや嬉しかったことの方が先に出てくるのは、記憶の美化かも。
部活も、普通のクラスや学年としての仲の良さも、どれも好きでした。
気に入っていたから、高校に行ってみんなと離れ離れになることが嫌すぎて、受験勉強には全然手が付きませんでした。(他の理由もたくさんありましたけど。笑)
高校1年生の頃、中学校に戻りたくてグループに入り損ねてぼっちになりました。
高校2年生では、理系コースに進んだので女子が6人しかいないクラスになりました。(クラス全体で25人、確か。)
そこで仲良かった子と同じクラスになれて、段々とクラスの雰囲気もつかみ始めたときに気付きました。
「あれっこのクラス、思ったより変な人ばっかりだぞ??」
そう気づいた私は、あえて一般人をやめました。
むしろ1年生の頃からぼっちで行動していたし、一般人とは少し離れていたかもしれませんが。
一般人になる必要性がないことに気が付いたのです。
私が考えている一般人とは、中学生の頃の私のようなものです。
周りの目を気にして、全体の輪を乱さないように空気を読むこと。
そのスキルを高める努力をすることを、一般人だと思い込んでいました。
そして、一般人になるための努力をしなければいけない、と思い込んでいました。
でも、違ったんです。うちのクラスの雰囲気は、みんな仲良く、それでいて相手に干渉しすぎることがなかったような気がします。
個性的な人間がたくさん集まっていたからこそ、その個性を注目もしないし、かといって潰すこともしない。一人一人のことをみんなが思いやっていたような気がします。
クラスで文化祭の出し物を考えていた時は、全員ほぼ納得したものを出すようにしていました。
クラスの会議とかでは、よく異なった意見が出ていました。それをまとめる労力を惜しまず、ちゃんとみんなが認めた結果になるように会議をしていました。
私は多少おかしい人間だっていう自覚はどこかでもっていました。
それと同じくらい、まともな人間だ、とかまともになりたい、みたいな理想も持っていた気がします。
でも、ここではそれが意味ないんだな。ヘンテコでも、きっと誰も気にはしないんだろうなって気付いて自分の意思をはっきり表すようになりました。
嫌なことは嫌って言うし、やりたいことはやりたいって言う。
そうしたことで、誰も文句や批判をするようなことはありませんでした。
出る杭が打たれない
出てもいいんだ
って、思わせてくれたあのクラスメイトたちには感謝しています。
そんなわけで、大学に行っても結局今も仲良くしているのは一人だし、グループみたいなものに所属することもしていません。大学には、基本的にはドライに接している気がします。
他の子に全く興味がないわけではありませんが、大学っていう括りにはまって何かすることがあまり向いていない気がしたので。
実習も、授業も、就活も。
気に入った人、場所にはとことん固執しますが、大学というハコそのものに愛着はそこまでありません。あの大学の日ごろの行いのせいもありますけどね\(^o^)/
きっかけがどこに落ちているのか分からないから、そのきっかけを探す場として大学を活用していくのはいいのかもしれませんね。
大学に通う意味って、一体何だったんでしょうね。私も、謎。←
途中から何話したいか、迷子になってだらだらしちゃいました。
おやすみなさいー。
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